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こんにちは!じゅんこです。

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40代、適応障害からの大逆転!目指そう在宅WEBマーケティングです。

今、40代で精神的にも疲れていて、仕事をなんとかしているけど、いつか今の仕事をやめて、自由に在宅で働いてみたいと思っている方に向けて応援する気持ちで書いています。
なぜかというと、私自身が適応障害※と診断されましたが、今まだ仕事をつづけながら、現在WEBマーケティングを始めているからです。私の新たなWEBマーケティング人生の1章は始まったばかりです。
もし、私が成功したら、40代でも50代でも決して遅くないよと伝えて、多くの人を支援していきたいと思っています。

※適応障害とは:ある特定の状況や出来事がその人にとってとてもつらく耐えがたい感じ(主観的な苦悩)をうみ、そのために気分や行動面に症状に現れるもの。例えば、憂うつな気分や不安感から涙もろくなったり、過剰な心配をしたり、神経過敏となります。

 

WEBマーケティングの魅力は、物の価値や魅力を角度を変えて表現することだと思います。よくテレビで食レポを見ますが、食事がとてつもなく美味しそうに見えてきて、いつか食べてみたいなって思わせる表現力ある人いますよね。その人がWEBマーケティングをやったら、やっぱりなんでもよさそうに見えてきてきっと買おうかなって思わせることができそうですよね。

それとは真逆で私は表現力もなく、何もないところからWEBマーケティングをスタートするところです。

素質ゼロからの私のWEBマーケティング挑戦。きっと無謀な挑戦です。でも、人生一度きり。挑戦してみないと、副業が得られるか得られないかもわかりません。やってみた人にしか分からない苦労や楽しさや成功を自分のものにしていきたいと奮闘を始めました。

今日は、そんな私の自己紹介をさせていただきます。少しでも共感していただけたら嬉しいです。

どうぞよろしくお願いします。

 

カミツキガメの幼少期

私は会社員の父と専業主婦の母の長女として山口県で生まれました。

生まれて2歳ごろから、近所にも同世代の子どもたちがいたため、近所の子供たち3~4人で遊ぶようになりました。仲がいい時はいいのですが、けんかになると私は言葉の表現力がなかったため、いつも「がぶっ」と友達をかんでいました。近所の友達のおばあちゃんが、「じゅんこちゃんは噛みますから気をつけなさいませ」といつも言っていたそうです。この表現力の無さ、子供の時からだったなんて、WEBマーケティングには致命傷ですよね。誰かの勇気になれると信じています・・・。

※子供の噛みつきの原因には、大きく分けて3つあります。1つは、言葉の代わりの意思表示として、2つめは、甘えている時に遊びとして、そして3つめは、けんかの時、攻撃の手段としてがあるそうです。これらは、子供の嚙みつきは成長とともに終わりるそうです。

プリントに載りたい!小学校2年生時代

小学校に入学して、毎日、日記を書く宿題※がありました。毎日そんなにも変化のない中、とりあえず宿題はきちんとするタイプだったため、何も考えずに書いていました。
小学校2年に入ったある日、気が付きました。毎週金曜日に配られるお知らせプリントに、友達の日記が載っているではありませんか。羨ましい、私も載りたい・・・。どうやって載ったのかさっそく、町田先生に休み時間机まで行って聞いてみました。
町田先生:「上手く書けてる人を載せるんよ」
私はこの日から1年間2年生の間、週末のお知らせプリントに乗りたい一心で一生懸命書きました。それからは、毎週、毎週の週末のプリントにドキドキしていました。
今回は載っているかも
とうとう1年が経ち2年生で私の日記がプリントに掲載されることはありませんでした。ただ、最後に町田先生が1年でとても日記が上手くなったと褒めてくれました。(褒めてくれるのなら載せてよーーー)と心から思ったものでした。

そういった努力が基になったからか、小学校の詩集で選ばれたことがありました。

また、小学校5年生では、国語の時間、何回も積極的に発言したからと、松村先生が、いつも3だった国語の通知表の評価を4にしてくれました。

私は本が嫌いなのに、書くことは好きな子供でした。よく本好きの母が自分のために図書館で8冊くらい本を重ねて置いてくれていたことを思い出します。母は本好きだったので、良かったらという好意だったのですが、何となく、気が重い気がしていました。

だから、読解力は今でもなくて、あの時母が毎週借りてくれていた本たちを読んでいたら良かったと振り返って後悔しています。

※宿題はいつから?

現在の宿題は19世紀ばドイツの教育現場から広がったと言われています。「ドイツ人が修得すべき知識や技能を強制的に叩き込む」ために宿題という効率の良いプログラムが推進されたそうです。それを、日本の明治新政府もドイツから学び、学校のプログラムに宿題を導入したそうです。宿題はもともとは強い国家を作るという狙いがあったようです。

表現者になりたい友達から刺激

 

そんなこんなで、学力と努力が足りない学生時代を過ごしてしまったせいで、第一志望の高校に落ちてしまいました。もうそれはそれは、悲劇のヒロインのような気分で高校生活をスタート。私はそれをきっかけに、学校では陰キャ生活に入りました。

そんなゆがんだ高1の夏休み、家族旅行で宝塚を観劇し、もう私は一気に気持ちも心も宝塚になりました。その日から、宝塚を受けるためにバレエ教室、声楽教室に通い始めました。毎日、カチコチの身体※を動かし、出ない声を発声練習してとにかく人生で初めて頑張りました。

※カチコチの身体:体が硬い原因には、筋肉の緊張状態や水分・栄養分不足、加齢があります。柔らかい身体はコンディションを整えることにつながりますね。

そんな、バレエ教室には、宝塚が好きで通っている仲間も5人くらいできました。
その中でも、特に仲良くなったのが、みるきいという友達でした。演劇部で演劇がしたくて、宝塚が受けたいと言っていました。彼女は市内でも一番良い高校に通っていました。高校も違うのに私たちは本当に毎日毎日遊んでいました。彼女は、コミュニケーション能力が高く、興味もファッション、メイク、映画、音楽、本ととても広くて、私はとても影響を受けました。彼女が進めてくれた本を読むようになりました。山田詠美やよしもとばなな など、あれ、私でも読めるし面白い。と本の面白さに気が付いたり、アンアンなど雑誌や化粧の仕方、本当に彼女のおかげで視野が広がりました。
みるきいは言っていました。「私は表現者になりたい。」と。私はかっこいいなー。私は宝塚の事しか考えていなかったけど、彼女の抽象度の高い言葉を聞きながら、あー私は宝塚がダメだったら何になればいいんだろうとおもっていました。

そうして、ついに、宝塚を受験して見事に失敗しました。※

宝塚は今年110周年を迎えるそうです。宝塚音楽学校の過去最高倍率は1994年48.25倍を記録しました。私が受験した年が、まさにこの年でした。当時は東の東大西の宝塚と言われていました。実際、受験会場で私が話をした人の中に、「ここがだめだったらあきらめて、東大を目指す」という子がいました。

初めての一人旅でわずか1日でホームシックにもかかりました。宝塚音楽学校の中に足を踏み入れた感動。同じように全国から集まった受験生がわんさかそこにいた光景。下級生から、直接振付を受けながら感じた品の良さなど、何年たっても忘れられない情景が私の一つの宝物なのかもと思います。

そうして私は、声楽の先生が通っていた声楽科のある短期大学に入学しました、
とにかくピアノが好きで頑張りました。そんな、短大2年の時、妹が、アメリカのカンザス州に1年間高校留学することになりました。
私は、この時、絶対に私も海外に行こうと決心しました。

短大卒行後は、嘱託職員として、だらだら遊びながらも、ちょっとづつお小遣いをためていきました。
ついに、25歳の時オーストラリアで、ボランティアワークをしながらホームステイできるところに申し込み、行くことになりました。
オーストラリアでは、小学校、中学校、高校にアシスタントティーチャーとして通いながら、ホームステイを満喫しました。空港を降りてすぐ、サングラスを買いに行ったこと。ピカチュウが流行っていて、折り紙でピカチュウをたくさん折ったこと、小学生は元気いっぱいで可愛かったこと。オーストラリアの小学生の親たちは働いていても15時ごろには車で迎えに来ること。ホームステイ先にプールがあって歌ったり泳いだりしたことなどなど、体も心も解放感でいっぱいになった大満足の1年でした。

営業力ゼロで悩んだエステティシャン時代

日本に帰ってきて困りました。英語はぎりぎり伝わる程度。夢は外資系なのに、実力はほど遠い現実がありました。
私は、帰国後暫くしてから、エステの仕事をすることにしました。

エステは全く興味がありませんでしたが、資格がとれるという言葉に惹かれました。入社してすぐ先輩に眉毛の書き方を治された記憶があります。でも、マッサージを一生懸命する仕事はなかなか楽しい仕事でした。悩みは新規の営業。全然ダメでした。だから、新規を頼まれることもほとんどありませんでした。営業嫌いの私が一番嫌いだったのは毎月記入する個人目標シート。気が付けば、毎日頭の中でどうやったら営業が上手くなるんだろうとなやみになやんでいました。休みの日も営業ができない自分を考えると自然と無力感に襲われ、涙が止まらないようになりました。通ってくれるお客さんとは仲良くなってリピートももらえるようになりました。3年働いて、エステティック業協会という試験を受けて、無事資格をゲットしました。そのころ、一生懸命働いていると、ある日突然、昇進の知らせが入りました。しかもその後エリアマネージャーから、東京で勉強してくるように出張命令が出ました。

何が何か分からない中、東京に進出しました。北千住駅から乗り換えたところに、エステで借りているマンションがあり、そこに、地方から勉強に来ている人たち2~3人との共同生活をしました。
朝10時から11時台の終電まで、東銀座店で働き続けました。よく、東銀座店にたまに就職してくる新しいスタッフがいましたが、あまりに疲れる労働に耐えきれずすぐにやめていく人も多くいました。でもそんな中、東銀座店にも素敵なお客さんや、私と仲良くしてくれるスタッフもいて、とても良い時間になりました。

結婚で自分の居場所も精神も失う

そんな中、開かれた飲み会で、元旦那と出会いました。IT・外資系・海外の大学を出ている。性格も私と真反対で、なんでも細かく観察し、メールが来たら秒で返信するような性格。
私にはないものがある。この人といると自分を高められるのではないかと思いました。あっという間に結婚して3年。私は監獄に入っているような気持の休まることのない生活を送りました。家では主婦になり、なにもかもが完璧でないと叱られ続ける毎日となりました。間違いでも自分の選んでしまった人生だと思い、毎日毎日耐えて過ごしました。
すると、ある日突然転機が訪れました。相手から離婚しようと言われたのです。私はほんとうに運よく晴れて釈放されました。あの日、自分のものをかたずけて、空っぽにした出ていく部屋を振り返ると、テーブルに置いたクレジットカードの向こうに、澄み渡る青い空が広がっていました。
釈放後(離婚後のこと)38歳。
父が元夫と話をつけてくれました、私には400万の手切れ金が払われました。

看護学校と再婚

私はそれを元手に、山口の地元にある看護学校に通うことに決めました。半年は社会人枠で受かるために論文を練習。気合が認められたのか、無事社会人入学を果たしました。一番の最年長者となりましたが、やる気は満々。同じように社会人を経験して入ってきた同期もいて、楽しく学校生活を送りました。テストもなんとか欠点を一度も取らずにすみました。そして、遅刻を1回しただけでした。そんな真面目な看護学校生活。卒業と同じ時期に再婚もできました。
今度は気が合って、なんでも話ができて、優しい性格の旦那様
やっぱり人は心が通う人が一番だと心から言えます。
私は今の旦那様から心の安定を手に入れることができました。
知人の紹介で出会いましたがかなりの遠距離で結婚でした。なので、結婚と同時に出雲という遠いところに嫁ぐことになりました。就職も出雲ですることになりました。

辛すぎる病院での修業

そこで疑問がわきました。
不器用すぎる、就職したら上司より年上となるこんな私が看護師になって、病院勤めできるのかな。
そんな心配が的中。
病棟配属となり、とても優秀なよくできる同期の横で、うじうじしたり、簡単なことができなかったり、もうとにかく半端なく足でまといな毎日を送りました。
「ごめんなさい」が口癖になっていました。
でも、私はほかの人とは違います。元旦那を見返したい。400万円を手にするまでは、この看護師という道のりに全金額かけてきたから引き返せない。看護師になったからには稼ぎたい。今の旦那さんとの家の借金も返済したい。などなど、精神的に苦しくて、1年で辞めていった同期もいたけど、私は、こんなことではへこたれないぞと働き続けました。

そして3年後、適応障害と診断を受ける

やはり、でも3年後、直感的に精神的にもしかしたら自分はやばいのかもしれないと思いました。

3年間休みの日は布団から起きられない日々が続いたのです。さすがに強靭だと思っていた私でもこのままではうつ病になるのかな。いやもうきっとなってる。そう思い、近くに運よく名医がいたので受診しました。
先生私はうつ病ですよね。わたしは先生に言いました
先生は「いやうつ病時じゃなくて適応障害だね」といいました。
わたしはなんだか少し心が軽くなりました。
先生は「一緒に就職を探してあげるから今すぐ新しい仕事を探しなさい」といってくれました。
それから、私はいくつもの病院を探して探してファイルしていきました。
結局頭によぎりました(小さい病院にしたら、もっともっと耐えられない状況になる可能性がある。それならまだ、大きい病院にいた方が、最悪の時には、移動をお願いしたりできる。)
先生に次の受診で言いました先生私は色々探して変わらない事に決めました。
先生は私がそういうと2パターンいる。その選択であっていると。
私はいまもそうした自分の限界が来ないように自分をせめて追い詰めない考え方をするように、人の顔ばかりみて、一喜一憂しないように気を付けて働いています。

始まりは、WEBマーケティングって何?

そして、体調も通院で整い始めたころ、少しずつ何か新しくやってみようと思えるようになりました。私は近くのパソコン教室「わかるとできる」に通い始めました。私には無理と思っていたパソコンも習うと楽しくて、音痴すぎるパソコンも気が付いたら、MOSの試験に合格し、私ってパソコン好きだったんだと思えるようになりました。
そして同時期に、女性としての魅力あふれる勝社長のマインドと金融とWEBマーケティングが学べるというサロンって一体どんなサロンなんだろうとワクワクしてヴィクトリーサロンにも入会しました。入会してみてびっくり、ワクワク期待していた以上のどれもハイクオリティすぎるサロンの内容。
パソコン教室には通い始めているものの、まだまだ私は超機械音痴で、最初は、WEBマーケティングって初めて聞いたけど何?っておもっていました。
気が付けば、マインド・金融と同じかそれ以上に、毎月の青木先生の話をとても楽しみにしている自分がいることに気が付きました。
今詰んでると感じている看護師をもし辞めて、もし在宅で、もし毎月何十万も稼ぐことができたら、もしかして今世では決して達成できない楽しいこともできるし、オシャレもできるし、お金で苦しまずなにより精神的に自由で楽しくできる。
私は今、そんな理想を夢に掲げて走り出しています。それは、とても夢に満ちていて、楽しいことです。
私が頑張ることで、様々な職場で人間関係や何か心の閉塞感を感じながらも必死に生きている皆さんに希望を与えられたら、こんなに嬉しいことはありません。
不器用で、どんくさい私ですが、どうぞよろしくお願いします。